02.11 (Tue)
尾崎 亜美(おざき あみ、本名:小原 美鈴、1957年3月19日 - )は、日本のシンガーソングライター。人物京都府京都市北区出身。京都市立柏野小学校、京都市立衣笠中学校卒業。京都府立山城高校中退。血液型はB型。松田聖子「天使のウィンク」「ボーイの季節」、杏里「オリビアを聴きながら」、観月ありさ 「伝説の少女」など、他のアーティストへの楽曲提供も多数手掛けている。夫はミュージシャンの小原礼。母の尾崎暁美は創作袋物作家。主に時代物の西陣織の帯を用いて袋物(ふくろもの)を制作し、各地で作品展を開いている。娘と共に2005年1月9日放送のテレビ朝日『グレートマザー物語』に出演した。映画評論家の田山力哉の姪と紹介されることもあったが誤りで、正確な関係は、田山が母方の大叔父の妻の甥であるという遠縁だった。
来歴:8歳でクラシック・ピアノを習い始める。16歳頃からポップミュージックに興味を持ち、アマチュアのサークルに参加、作詞作曲をするようになる。公式・処女作は「ひとりっこカバっこ」というタイトルで、これは後にNHKの子供番組に起用された。ただし、尾崎によると真の処女作は(出身校・衣笠中学校の)「衣中音頭」である。中学では演劇部の創部に参加した。演劇部の27年後輩に芥川賞作家の綿矢りさがいる。京都府立山城高校時代に、地元ラジオ局・近畿放送(現:京都放送)の公開オーディション番組「アクションヤング大丸」に他校の男子生徒と2人組で出場、司会の諸口あきらや審査員の東芝EMI(現:EMIミュージック・ジャパン)関係者に絶賛される。その後一時期、やしきたかじんのバックバンドでピアノを担当したこともある。* 1976年、シングル「冥想」で東芝EMIよりデビュー。芸名の「亜美」はフランス語で「友人」を意味する「ami(amie)」に由来する。尾崎自身は、当初は本名でのデビューを望んでいたが、過去に同じ「美鈴」名の歌手のプロモートに失敗していた関係者に説得されたらしい。同年松任谷正隆プロデュースでアルバム『SHADY』を発表、ポスト・ユーミンの最右翼と呼ばれる。同年発表されたユーミン本人のアルバム『14番目の月』にコーラスとして参加。* 1977年、3rdシングル「マイ・ピュア・レディ」が資生堂のCMに起用されヒット、一躍注目を浴びる。
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来歴:8歳でクラシック・ピアノを習い始める。16歳頃からポップミュージックに興味を持ち、アマチュアのサークルに参加、作詞作曲をするようになる。公式・処女作は「ひとりっこカバっこ」というタイトルで、これは後にNHKの子供番組に起用された。ただし、尾崎によると真の処女作は(出身校・衣笠中学校の)「衣中音頭」である。中学では演劇部の創部に参加した。演劇部の27年後輩に芥川賞作家の綿矢りさがいる。京都府立山城高校時代に、地元ラジオ局・近畿放送(現:京都放送)の公開オーディション番組「アクションヤング大丸」に他校の男子生徒と2人組で出場、司会の諸口あきらや審査員の東芝EMI(現:EMIミュージック・ジャパン)関係者に絶賛される。その後一時期、やしきたかじんのバックバンドでピアノを担当したこともある。* 1976年、シングル「冥想」で東芝EMIよりデビュー。芸名の「亜美」はフランス語で「友人」を意味する「ami(amie)」に由来する。尾崎自身は、当初は本名でのデビューを望んでいたが、過去に同じ「美鈴」名の歌手のプロモートに失敗していた関係者に説得されたらしい。同年松任谷正隆プロデュースでアルバム『SHADY』を発表、ポスト・ユーミンの最右翼と呼ばれる。同年発表されたユーミン本人のアルバム『14番目の月』にコーラスとして参加。* 1977年、3rdシングル「マイ・ピュア・レディ」が資生堂のCMに起用されヒット、一躍注目を浴びる。
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